蛯名 正義 元騎手(現調教師)Masayoshi Ebina
1969年生まれ。競馬学校を第3期生として卒業、同期には武豊らがいる。デビューした1987年に30勝をあげて関東新人騎手賞を受賞、以降も着実に勝ち星を積み重ね関東のトップジョッキーに。2001年には全国リーディングを獲得。1996年の天皇賞・秋(バブルガムフェロー)を皮切りにGI 勝利は多数。アパパネとのコンビでは牝馬三冠制覇(2010年)を達成している。2012年には史上7人目のJRA通算2000勝を達成。
デビューして30年が過ぎましたけど、長くやってこられたのは、あまり大きなケガをしなかったことも大きいかもしれません。僕の場合、いちばん大きなケガはかかとの粉砕骨折で、それでも全治半年と言われたのに、3か月経たずにレースに戻っていましたから。
体で気をつけているのは、トレーニングとケアをバランスよくやることです。トレーナーを、特に体のケアのために専属で雇ったのは30代の始め頃からですが、騎手では僕が最初だったのではないかと思います。それ以来、アスリートとして長くやっていくにはどうしたらいいかを、複数のトレーナーと「チーム蛯名」として考えてやってきています。
でも、そういうことを意識的にやっていても、別の理由で早くに引退せざるを得なくなる人はたくさんいます。僕は運も良かったんだと思います。あとは人に恵まれる、馬に恵まれることも大事ですしね。
僕のデビュー戦は、忘れもしませんが勝ち馬から4秒近く離された大敗でした。アイガーターフという400kgくらいの小さな馬の新馬戦で。調教でも目立っていなくて、師匠の矢野進調教師も、初めてだし他の騎手に迷惑をかけずに馬を追う練習でもしてこい、と言ってくれたんです。でもいざゲートを出てみたらずっと離れた後ろを走っていて、迷惑をかける位置にすらつけられませんでした(笑)。
それでも視界とかスピードとか、これが競馬なんだな、と思って乗っていましたね。当時はまだ競馬学校での模擬レースもあまりやってなかったですし、お客さんの前で乗るのも初めてでしたから。
初勝利はデビューから1か月と少しが過ぎた頃でした。ユタカ(武豊騎手)をはじめ、すでに同期も何人か勝っていて、ちょっと焦っていたかもしれません。ダイナパッションという馬で、先頭でゴールしたときは、やった、という感じでした。これで少し地に足が着くというか、落ち着いて乗れるようになった感じです。
今でも毎年、最初の1勝をあげるまでは、あの初勝利までの焦りと同じような気持ちを味わっているとも言えます。1つ勝つまではなんとなくドキドキしているというか、気持ち的には毎年、新たにデビューしなおしているような感じですね。
騎手は、どんなに身体や技術がすぐれていても、勝てなければ乗せてもらえなくなります。それが続けば引退しなくてはいけません。身体的には他のスポーツよりは長く続けられる仕事かもしれませんが、厳しさという点では決して楽な世界ではありません。
デビュー当時の自分を思い返すと、技術はもちろんですが、やっぱり気持ちの面で未熟だったと思います。当時、スタンドから見ているような客観的な目で馬に乗りなさい、と教えられたんですけど、そういうことができるようになってきたのは、ある程度キャリアを積んでからです。
今は競馬学校でいろいろと教えてくれるので、騎手になったばかりの新人でも、僕らの頃とはずいぶん違うなと思います。模擬レースもたくさんやっていますしね。
僕らの頃は、そりゃあ競馬学校は厳しかったですよ(笑)。裸馬に乗せられて、技術を教えるというよりは、そういう追い込まれた状況でどうするかを学ばせる、みたいな。文字通り“スパルタ式”でしたね。でも、あれはあれで身になっているんだと思います。
先輩も厳しかったですね。でもそういう先輩が、デビューした後いろいろなことを教えてくれるんです。競馬のことはもちろんですけど、へんな言い方ですがお金の使い方、遊び方なんかを、時には楽しく、時には厳しく。まだ18歳くらいの新人に社会のことを教えてくれました。ああいう先輩と後輩のつながりは、最近の若い子はあまり好まないようだけど、必要なものだと思います。
これから騎手を目指そうという方に伝えたいのは、努力を努力だと思ってやっているようでは何事も続かないですよ、ということです。ジョッキーに限った話ではないですが、それが本当に好きなことならば何だって頑張れるはずです。
競馬学校に入ったら、3年後にはプロの騎手としてデビューすることになります。自分と他人の命がかかった競技をしなければならない。世界のトップジョッキーたちとも戦わなければなりません。そういう世界に入るんだという気構えを、本人はもちろんですが、ご両親も持って送り出してほしいなと思います。